それでもピーターパンに憧れて

2000年生まれの女子高生がつらつらと綴っております。

 

卒業式も終わり、今はただ春を待つだけとなりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

大学にも無事に合格し、新生活への期待と不安でいっぱいです。

 

卒業式が終わったとはいえ、身分上は3月いっぱいまで女子高生なので、女子高生と名乗っています。サバ読んでないよ。

 

 

卒業式を終え、友人達は髪を染め、化粧をし、「大人への歩み」を着実に進んでいます。

そんな友人を見るたびに当然だ と思う気持ちと、寂しい と思う気持ちが浮かんでは消え「黒よりも似合ってるよ」なんてウソかホントか分からないような事を言いながら、なんとも言い表せない喪失感のようなものが襲いかかってきます。

 

卒業式を控え、もうすぐみんなと離れ離れになるという時期は皆で「卒業したくないな」とか「ずっと子どもでいたいな」って言ってたのになぁ。と、そんな事思っても仕方がないんですけどね。やっぱり寂しく思います。

 

私は、「人はピーターパンになれない」のだと思っていました。進み続ける時間に追いつかなければいけない、止まる事は許されないから人はいつのまにか大人になって行く。永遠の少年には「なれない」のだと思っていました。

 

でも実際は違いました。

「人はピーターパンにはならない」のです。

子どもでいたいと言いながら、それでもやはり「大人」への憧れは誰もが持っているから。出来なくなる事よりも出来るようになる事に心を躍らせてしまう。

ネバーランド は歳を重ねるにつれ形を変えていきました。小学生のころは家、中学生の時は学校、高校生では友人のそば、大学生では、社会人では何処がネバーランド になるのでしょうか。

もしかしたら、いつのまにか無くなってしまうかもしれません。

 

無くなってしまったことにすら気づかないかもしれません。

 

寂しいけど、大人になるという事はそういう事なのでしょう。

 

もう二度と戻らない宝物のような青春の日々を思い出しながら、そんな事を考えています。

 

ティーンエイジャーでいられるのもあと2年。

子どもでいられるのはあと何年なのでしょうか。

 

 

 

最近の出来事。

2000年生まれの女子高生がつらつらと綴っております。

 

4月26日、世間で、そして通っている高校で大いに話題になった事件の会見が開かれましたね

テレビの画面に映るのは涙を流しながら謝罪の言葉を述べる大人気アイドルの山口達也さん。

そして被害者は私と同じ女子高生。

 

この件については世間でも、そして友達との間でも意見が分かれています

 

今日はその事について自分の考えを整理する事も兼ねてお話ししたいと思います

 

 

まず今出ている意見というのが大きく分けて

① 山口さんが100%悪い

②山口さんが悪い事には変わりはないが女子高生にも多少の非がある

③女子高生が悪い

の3パターンあると思います。

 

自分の意見を先に言うと、私は①です。

というか私は今回の事件だけでなく、性犯罪は加害者が100%悪いと思っています。

そして今回の事件は特にタチが悪いと思っています。

なぜか、まず山口さんと被害を受けた女子高生との関係です。

 

女子高生からすれば山口さんは「とても有名なアイドル」であり「仕事の先輩」であり「カッコいいお兄さんのような存在」であり、そして

 

「芸能界で権力のある大人」

 

だったと思います。

 

まだ未成年の女子高生がそのような人の家に誘われ、断ることが出来るものなのでしょうか。まして相手は46歳、自分の父親とそう変わらない年齢なわけで、そんな大人から「性的対象として見られている」と思うでしょうか。

 

 

思いませんよね。

少なくとも私なら思いません。

 

誘いを断りにくい状況下にあったことは明らかで、山口さんは自身が持つ権力を使って女子高生を家に誘ったのです。

タチが悪い と言ったのはこの部分です

 

しかし世間では②の「山口さんが悪い事には変わりはないが女子高生にも多少の非がある」という意見がとても多いです。そして同世代でもこの意見が圧倒的に多いのです

 

その方々の意見をtwitterで見ていると

「家に行くとかありえない」

「自衛するべき」

という言葉を多く目にします

 

前者は先ほど申し上げた通り「家に行かざるを得ない状況だった」のではないかと思います。

そして女子高生の方も、1人では不安だったからか友達と行くという対策をとっています。

現実問題、これが女子高生の取れる最良の

「自衛」だったのではないでしょうか

 

46にもなって自制が出来なかった大人と満足な自衛が出来ない状況にあった未成年

 

どちらが悪いかは明白です

 

「被害者は家に行く行かないの選択が出来た」以前に加害者は「酒を飲む飲まない」、「女子高生を家に誘う誘わない」、そして「女の子に手を出す、出さない」の選択が出来たのです

 

女子高生を責める理由などどこにもありません

 

 

 

 

 

そして、この事件とは少し違う話になりますが

「露出度の高い服を着てたら痴漢されて当然」

という意見もたまに見かけます

 

なぜそのような考えになるのか、私には理解できません。

逆にそのように言っている方は痴漢された時に「まあ今日は半袖着てたから仕方ないな!!」

って思えるのでしょうか。

 

自由に服を選び、自由に服を着ることを、加害者側の勝手な理由で阻害されても構わないと思っているのでしょうか

 

男女平等が世の中で掲げられているこの21世紀にも、残念ながら性犯罪は起きています

被害者にとっては思い出したくもない出来事を「名乗り出ないと分からない」などと、真実を優先するあまりデリカシーのない事を平気で言ってのける人もいます。

そして被害者は女性だけでなく男性の方もいらっしゃいます。

 

「性犯罪」は対岸の火事では無く、みんなで真剣に話し合わなければならない問題です。

 

「性犯罪」を無くすためには被害者を貶めるようなことはあってはいけないし加害者を擁護するなど、言語両断です。

 

考えた上でなのか無意識でなのかは分かりませんが、セカンドレイプを行なっている方々に、どうか解っていただきたい。

本当に泣きたいのは国分さんでも山口さんでもなく被害者の女子高生だと言うことを。

そして「キス位で」など、被害者以外言ってはいけない言葉です

 

どうかこれ以上被害者に遭われた女子高生が辛い思いをしませんように。

 

 

 

 

長々と失礼致しました

読んでくださりありがとうございます

不快な思いにさせてしまっていたらごめんなさい

未成年のたわ言と思って、大目に見てやってください  (笑) 

「見える」「みえない」

 

2000年生まれの女子高生がつらつらと綴っております。

 

春です。もう2年が終わってしまいました。高校生活の3分の2が終わり、仕上げの3年生に差しかかろうとしている春休みです

 

高校生活は中学よりも圧倒的に過ぎるのが早いように感じます。ほんと。気抜いてたらすぐ半年とか経っちゃってる。

 

私は春が苦手です。春というより花粉症が。

花粉症の方、お元気ですか?大丈夫ですか?

早い目にお医者さんにかかってお薬もらってくださいね。

 

さて、タイトルの話に入りたいと思います。

 

最近日本の伝統芸能、主に能楽に興味を持ちはじめました。

元々日本的なものはすごく好きなのですが、能楽は初めて興味を持ったので色々調べるのがすごく楽しいです。

 

調べていくうちに、能や狂言では「神」「鬼」「霊」などの「みえない」ものが多く出てくることに気付きました

 

私が大好きな「三番叟」という演目にも神様が出てきます。

 

 

それに比べて現代の芸能、たとえばドラマや映画はそういう「神」や「鬼」など、いわゆる「みえないもの」ってあんまりでできませんよね。普通に考えて「リアリティに欠けている!」と言われればそれまでですし。心霊番組やホラー映画はありますが、大抵「ありえないもの」とアタマのどこかでは思ってみてたり…

 

そう考えると昔の人は現代人よりも「みえないもの」にとても寛容だったのかな、と思います。

夜になると鬼が出る、天災は神が怒っている証

など、昔の人はこれが普通な考え方だったのでしょう。

 

昔の人はよくわからない現象を名前のつく何か、「鬼」や「神」、「霊」の仕業だと考えていたのだと思います

さわることができない「現象」を、姿は見えないが実態がある「もの」に例えていたとも考えられます

つまり、昔では「鬼」や「神」は「わかるもの」「存在する何か」という認識であったといえるでしょう

 

しかし時が経つにつれ科学が発展し「よくわからないもの」の正体がだんだんわかってきました。「よくわからないもの」には名前がつき、「よくわからないもの」の代わりの役割を果たしていた「神」や「鬼」が「みえないもの」「よくわからないもの」になってしまったのです。

 

 

う〜ん、話がややこしくなってきたな

 

考え出すととまりませんね、またこんな話をしたいと思います。伝統芸能奥深い……

 

では今回はここまでで

「数学」とは

現在17歳の高校2年生がつらつらと綴っております

 

「数学」 これは私が小3か小4くらいの頃から現在に至るまで、ずっと苦しめられてきた教科です。いや、でも足し算引き算掛け算割り算あたりの頃、つまり小1小2の頃までは苦手意識なんてなかったんですよ。むしろ得意な方だったと記憶しております。

 

私が数学の魔の手に絡めとられたのは「通分」に入った頃でした。

その前の「分数」から怪しかったのかもしれませんがそれは置いといて、「通分」です。

 

通分で躓いてからの私はどうやって数学と向き合えばいいのかわからなくなってしまいました。頑張って必死に解いた答えも答えが間違っていれば問答無用でバツをつけられ、そんな日々が続き、そしてそんな日々が長かったのです。

 

中学に入ってからはもっと悲惨でした

xとかyとか使いだすんですよ?意味わかんなくないですか?

数学嫌いの友達とは「せめて□とか△にしたらいいのに💢」と愚痴をこぼす毎日。

私の怒りの矛先は数学を飛び越えxとyにまで向いていました。

 

数学が嫌いなまま、数学が苦手なまま高校受験をしました。数学の点数はそれはそれは酷いものでしたが幸い、数学以外の教科は得意だったので高校は入学することができました

 

高校1年生の時、魔物はさらに力を増し、私にのしかかってきました。あの日々の辛かったこと辛かったこと…

よく塾の講師さんが言うじゃないですか、「分かった瞬間って楽しいよね!勉強楽しくなるよね!」みたいなの。

 

 

… ないんですよ

 

 

数学に関しては、分かった瞬間が楽しくなんてならないんですよ!!!

 

あ、私にはですよ!!?

 

あるとすれば危機を回避できたほんの少しの安堵感とまだまだ分からない事が沢山ある恐怖。この2つです

 

しかし、高2になって私の数学コンプレックスは少しずつ解消されていくようになります

 

なぜか、

それは もう何も考えずに解くようにしたからです

諦めた と言ってもいいのかもしれません。

難しい問題に出会って、初見で意味がわからなくても「あ〜!はいはい!なるほど!オッケーオッケー!」みたいな感じで2回目解いてます。知ったかぶりみたいな感じです。

 

全てを理解する事は諦めて、10のうちの8くらいは理解できたらいいなぁくらいで解くようになりました

学校の定期テストではこれで十分足りるということに気づいたのです

 

 

これは最近思ったことなのですが、どうやら「数学」という教科は「可能性」の話をしているようなのです。

 

xやyなどのアルファベットを用いる式は全て「これがこうなる"可能性"」を表しているみたい。

 

公式を考えた人は一体どんな脳みそしてんですかね、どんな数字を当てはめても解を出せる式をつくるって、かなり想像力豊かな人物なのでしょう

 

数字の問題を解く時、公式を使う時、この公式を使ったのは誰なんだろう とか この問題はどれだけの可能性を秘めているんだろう とか

考えながら解いてみると面白く感じるかもしれません

 

まあ苦手なことに変わりはありませんけど